はじめに
住みここちランキング静岡県1位。財政力指数も県内トップ。人口が増え続ける、全国でも珍しい町。
いま長泉町に暮らしていると、この豊かさは当たり前のように感じるかもしれません。
でも、70年前の長泉村は違いました。
戦後の疲弊で財政は赤字。農業だけでは立ち行かない。隣の三島市との合併話も浮かんでは消える。人口わずか1万3千人の小さな村。年間の歳入は約4,650万円。
その村に、ある日、とんでもない話が舞い込んできました。
東洋レーヨン(現・東レ)が、この村に工場を建てたいと言っている ――。
自分たちから仕掛けた誘致ではありません。長泉が持っていた水と土地と気候を、東レの方が見つけてくれたのです。しかし、話が来たからといって自動的に実現するわけではありません。村のリーダーたちは、このまたとないチャンスを逃さないために全力で動きました。
これは、その記録です。
1. 赤字の村
昭和31年(1956年)8月7日、長泉村公民館。
工場敷地の地権者ら約70名を前にして、永井保村長が立ち上がりました。
村長は飾らない言葉で現状を語ります。戦後の復興と新しい教育制度(六・三・三制)を同時に進めなければならず、村は持てる資産を出し尽くした。全国のほとんどの自治体が赤字になっている。長泉村も例外ではない。
しかし同じ駿東郡を見渡せば、富士紡のある小山町、大東紡のある清水村、図書印刷のある原町は赤字を出さずにやっている。違いは一つ。大きな工場があるかないかだ。
永井村長は言い切りました。
「現下の状勢では、農業一本の財政ではどうにもならなくなってきている」
そして、こう続けます。
「地方自治体百年の計をたてるためには、現在の犠牲は多少あっても、工業立国の立場をとって、将来の村の発展を考慮すべきだ」
「百年の計」。自分たちの代だけでなく、子の代、孫の代まで見据えた判断をしなければならない。歳入4,650万円の村長が語る「百年の計」。この言葉の重さは、この後の数字が証明することになります。
2. 東レが長泉を見つけた
じつはこの演説の1年以上前から、東レ社内では新工場建設の動きが始まっていました。
昭和30年(1955年)2月、東洋レーヨン社内で新工場の用地選定が極秘にスタートします。社内でも限られた人間にしか知らされない、完全な秘密裏の調査でした。
秘密にする理由がありました。新工場で生産する「テトロン」の基礎技術であるポリエステルの特許交渉が、まだ決着していなかったのです。特許が取れなければ工場は建てられない。交渉がまとまるまで、計画を表に出すわけにはいかなかった。
全国から立地条件(電力・水・気候・交通運輸など)に適う7地区が図上調査で選ばれ、静岡県も含まれていました。
同年4月末、さらに静岡県内で絞り込みを行い、身延線・東海道線・御殿場線の沿線から5ヶ所の候補地を選定されます。富士宮・富士川・裾野・三島などで現地調査が進められました。
その結果、旧練兵場跡地を中心とする長泉・三島地域が第一候補に浮上します。
つまり、長泉村が積極的に売り込んで勝ち取ったのではなく、東レが自ら長泉の価値を見出したのです。
では、なぜ長泉だったのか。
長泉町史が「まず第一に指を折らなければならない」と挙げているのは、富士山の伏流水。大量に得られるだけでなく、「ハイテク工業用水としても最適と折り紙をつけられている良質の水」で、水温まで申し分なかった。加えて冬でもほとんど雪が降らない温暖な気候。東京・横浜・名古屋へのアクセスの良さ。三島駅からの輸送の便。そして旧三島重砲兵旅団の練兵場跡地という広大な国有地の存在。
長泉が元から持っていた力が、東レの目に留まったのです。
3. 大雪が遠ざけた富山
ところが、この極秘の動きを嗅ぎつけた県がありました。
昭和30年の夏、富山県が情報を入手し、積極的に誘致に動き出します。「土地十万坪の無償提供、固定資産税の優遇措置」という破格の条件を掲げた猛烈な運動でした。歳入4,650万円の長泉村に、同じことはできません。
全国7地区の候補が、最終的に「静岡と富山の二県の誘致競争」に絞られます。
そして昭和31年2月、東洋レーヨンは富山県の視察を予定していました。
ところが、大雪で行けなくなったのです。
もちろん、大雪だけで誘致先が決まったわけではありません。しかし長泉町史が「冬期もほとんど降雪のない温暖地であること」を立地条件の好条件に挙げていることを思えば、この大雪はなんとも皮肉な巡り合わせです。
町史はこう結んでいます。「長泉村が誘致に成功したのは、関係各位の格別な奔走に依ることはもとよりのことながら、以上述べた自然・人為的条件に恵まれていたことも見逃せない」。
長泉が元から持っていた力、そして少しの運。その組み合わせが、富山の猛攻を退けたのです。
4. チャンスを逃さなかった村
昭和31年4月26日、東洋レーヨン役員が静岡県庁を訪問。新工場建設の方針が伝えられました。
6月頃、県から三島市長・長泉村長・清水村長に「東レが工場を建てたいと言っているが、どうか」と打診があり、県庁で会談が行われます。清水村長が呼ばれたのは、候補地の一つだった元三島競馬場跡(現・三島高校)が清水村に関係していたためです。
そして7月24日、東洋レーヨンが県知事を訪問し、「地元の意向を伺って話を進めたい」と正式に申し入れました。東レの工場誘致が公式に長泉に決定した瞬間です。
話が舞い込んできたのは運も大きい。しかし、その後の村の動きは見事でした。
ただちに村議会特別委員会を設置。地元区長・農業委員会委員等からなる「工場建設推進協議会」を立ち上げ、「工場誘致特別会計」まで計上しています。せっかく来たチャンスを絶対に逃さないという意志が、このスピード感に表れています。
5. 歳入4,650万円の村が引き受けたもの
ここで、数字の話をしましょう。
本決まりの翌月、8月8日。東洋レーヨンの袖山社長・岩永常務らが長泉村役場を訪問し、工場建設の計画を語りました。
第一期工事費は、七十億円。
当時の長泉村の歳入は約4,650万円です。工事費だけで歳入の130倍以上。
さらに、工場建設の付帯工事(道路拡幅・水路付替え・旧火薬庫撤去など)で長泉村が負担すべき金額は約5,772万円。歳入を超える額です。
永井村長はどうしたか。
「この負担分の支払いの財源としては、本村が東洋レーヨン株式会社より、五千六百万円を無利子で借り入れてこれに当て、その償還については、今後会社から徴収する村税をもって返済する契約になっております」(広報「ながいずみ」昭和33年11月15日号)
東レから無利子で借り、将来の東レからの税収で返す。まだ存在しない工場からの、まだ入ってこない税金を当てにした借金です。
話が舞い込んできたのは幸運でした。立地条件に恵まれていたのも事実です。しかし、歳入を超える借金を背負って「未来の税収で返す」という判断は、別次元の話です。うまくいく角度は高かったかもしれない。それでも、不測の事態が起きる可能性はゼロではなかった。
その覚悟の上で打って出た。ここに、70年前のリーダーたちのすごさがあると思います。
6. 東レの好意
用地買収も簡単ではありませんでした。
ポリエステルの特許交渉が未解決だったため、誘致の初期は地元にも秘密のまま進められており、それが一部の地権者の不信を招きます。しかし特別委員会の誠意ある説得で無事解決し、昭和32年3月に買収交渉が妥結しました。
工場敷地の全体は105,927坪。このうち83,700坪が長泉村。敷地内には社宅も含まれますが、工場部分のほとんどが長泉に建つことになりました。
土地代と補償費は東レの当初の予算を約8,769万円超過します。誘致条件的には本来これは地元負担のはずでした。しかし、特別委員会の粘り強い交渉と東レの好意により、最終的に用地取得費約2億7千万円は全額東レが負担してくれました。
歳入4,650万円の村に、追加の8,769万円を負担する余力はありません。もし東レがこの超過分を引き受けてくれなければ、話そのものが成り立たなかった可能性もあるのです。
東レは長泉を工場の場所として選んでくれただけではありません。長泉の未来を一緒に背負ってくれた。この事実は、70年後の私たちも忘れてはいけないと思います。
7. 「三島工場」という名前のこと
ここで、町民にはおなじみの疑問に触れておきます。
工場敷地105,927坪のうち83,700坪が長泉。ほぼ全面が長泉村に建つのに、名前は「三島工場」。なぜか。
これは、東海道新幹線も停まる三島駅のすぐそばに立地していること、そして全国的には「三島」の方がはるかに知名度が高かったことが大きいでしょう。企業が工場名に全国的に知られた地名を採用するのはよくあることです。
8. 村役場が履歴書を集めた日
昭和32年(1957年)3月17日、買収完了した工場用地で地鎮祭。長泉町史は「今まで当地域と全然関係のなかった同社が、当地に第一歩を印す、まさに記念すべき日であった」と記しています。
建設は急ピッチで進みます。同年5月にはすでに、東レ工場への就職希望者の履歴書を村役場が取りまとめていたことが広報誌に記録されています。自治体が企業の採用窓口まで担う。東レを村全体で迎え入れようとする、あの時代ならではの姿が浮かびます。
そして昭和33年(1958年)4月1日、工場構内面積約67,460坪の「テトロン」製造工場が完成。建設には大林組・銭高組・竹中工務店に加え、地元から東平商会・鈴木興業・東海土建・鈴木建設興業も参加しました。
9. 数字が証明した先見の明
永井村長たちの判断は、報われたのか。数字で確かめてみましょう。
まず、東レから無利子で借り入れた5,600万円の返済について。当初の見込みでは、昭和33年度から36年度までの4年間に東レから入る法人税割の総額は約1億582万円と試算されていました。この法人税割の税収を返済に充て、昭和36年には完済しています。
そして、長泉村(町)の歳入の推移です。
| 年度 | 歳入実績 | 備考 |
|---|---|---|
| 昭和30年(1955年) | 約4,650万円 | 東レ誘致前 |
| 昭和35年(1960年) | 約1億1,939万円 | 工場稼働3年目。固定資産税免除期間中 |
| 昭和36年(1961年) | 約1億9,360万円 | 免税明け。前年比+62% |
| 昭和37年(1962年) | 約1億9,472万円 | |
| 昭和38年(1963年) | 約2億4,318万円 | |
| 昭和39年(1964年) | 約3億2,808万円 |
歳入4,650万円だった村が、東レの固定資産税3年間免除が明けた昭和36年に一気に1億9千万円へ。わずか数年で歳入が4倍以上に膨らんでいます。
永井村長が「平年度年間四千万円くらい」と予測した東レからの税収。その見立ては大きくは外れていなかったことがうかがえます。
「未来の税収を信じた先行投資」は、見事に報われました。
10. 東レと長泉、70年の縁
東レ三島工場は、67年が経った現在も長泉の地で操業を続けています。
ポリエステル繊維に加えフィルムや医薬品へと事業を広げ、東レグループの中核工場として発展。敷地面積は約34.7万㎡に及びます。
長泉町にとって東レは、単に税金を納めてくれる大企業ではありません。
歳入4,650万円の村に、5,600万円を無利子で貸してくれた。 用地取得費の超過分8,769万円を追加で引き受けてくれた。村が自分の足で立てるようになるまで、一緒にリスクを背負ってくれたパートナーです。
70年前、東レが長泉を選んでくれたこと。そしてこの地で操業し続けてくれていること。長泉の今日の繁栄は、その信頼関係の上に成り立っています。
おわりに ―― 先人の背中を、未来へつなぐ
70年前のリーダーたちを、どう評価すればいいでしょう。
正直なところ、東レが長泉に目をつけてくれたのは、水と土地と気候というこの土地が元から持っていた力によるところが大きい。それに富山の大雪という幸運も味方しました。
しかし、話が舞い込んできたことと、それを現実にすることはまったく別の話です。
歳入を超える借金を引き受ける判断。地権者一人ひとりとの粘り強い交渉。村議会の特別委員会、工場建設推進協議会、誘致特別会計の素早い立ち上げ。村役場が就職希望者の履歴書まで取りまとめる、村を挙げての受け入れ体制。
舞い込んできたチャンスを、全力でつかみ取った。 その姿勢こそが、このリーダーたちのすごさだと思います。
そして、先人たちの実績にあぐらをかいているだけでは、次の70年は約束されません。
東レ誘致が長泉の未来を変えたのは、当時のリーダーたちが「農業一本ではどうにもならない」という現実を直視し、「百年の計」として未来の長泉を想像し、いま自分たちにできることを着実に実行したからです。
私たちも同じではないでしょうか。
いまの長泉が豊かであることに感謝しつつ、未来の長泉のために、いま何ができるか。70年前の永井村長たちがそうしたように、未来を想像して、着実に、一つずつ。
長泉クロニクルは、その「一つ」でありたいと思っています。
出典一覧
- 長泉町史
- 広報「ながいずみ」各号
- 長泉町公式サイト「財政力指数の推移」
- 長泉町行政資料
- 東レ公式note「三島の街とともに67年」(2025年6月20日)
- Wikipedia「長泉町」「東レ」

