あなたは富士見橋と聞くと何を思い出しますか?

~落成式当日に崩落した初代から70年、3世代の橋が見てきた長泉の風景~


富士見橋。
納米里と南一色をつなぐこの橋を渡ったことがある人は多いと思います。通学路だった人、通勤で毎日渡っていた人、橋のたもとのお店に寄った思い出がある人…。
でも、今の富士見橋が実は「3代目」だって知っていましたか?
しかも初代の橋は、落成式の当日に崩落したという衝撃のエピソードがあるんです。
今回は、長泉クロニクル第1弾として、この富士見橋の70年以上にわたる歴史を追いかけてみました。

現在の富士見橋の橋名版


目次

0代目:そもそも橋がなかった時代

富士見橋ができる前、納米里と南一色の間を渡るには「潜り橋(もぐりばし)」を使っていたそうです。
潜り橋というのは、川の水位が低いときだけ渡れる簡易的な橋のこと。普向寺のあたりから南一色側へ行けたという話が伝わっています。
当時の人たちにとって、黄瀬川を渡るのは一苦労だったんですね。


1代目:落成式当日の悲劇(昭和28年)

長年の悲願だった本格的な橋がついに完成したのは、昭和28年(1953年)5月20日のこと。
長さ69メートル、幅4メートル80、高さ7メートルの木橋で、当時の名前は「納米里橋(なめりばし)」。総工費317万円をかけて、村営事業として渡辺建設が施工しました。

ところが…。

落成式の当日、午前11時ごろ。式の準備をしていたまさにそのとき、橋が崩れ落ちたんです。

橋の上にいた7〜8名が橋の下に転落。落成式の準備をしていた3名が顔面などに全治10日から2週間のケガを負いました。幸い、死者は出ませんでした。
この事故は静岡新聞でも大きく報じられ、翌日から3日間にわたって記事が掲載されています。

静岡新聞の見出し(昭和28年5月)

  • 「落成式を前に墜落三人もろとも黄瀬川の新橋」(5月20日夕刊)
  • 「地盤のゆるみから三名負傷 落成早々の橋崩壊」(5月21日朝刊)
  • 「橋崩壊事件現場検証」(5月22日朝刊)

新聞記事によると、事故の原因は橋の東側(納米里側)の土盛りと石垣の基礎が軟弱だったため。幅5メートル、長さ3メートル半ほどの箇所が突然崩れ落ちたとのことです。
実は崩落の前から「納米里側のところが膨らんで来ているから危ない」と言っていた人がいたという証言も残っています。
当時9歳だった方(現在85歳)は「見に行って怒られた」と話してくれました。子どもにとっては大事件だったでしょうね。

崩落した橋の写真(静岡新聞 1953年5月21日朝刊より AIにより鮮明化)

1.5代目:修理と改名

崩落した橋は修理され、同時に橋へ通じる両方の道路も拡幅されました。
そしてこのとき、橋の名前が「納米里橋」から「富士見橋」に変わっています。落ちた橋の名を使い続けるのも躊躇われたのかもしれませんね。
富士山が見える橋だから「富士見橋」なんですかね。シンプルだけど、いい名前ですよね。
ただ、この1.5代目がいつ修理が完了したのか、正確な時期は分かっていません。ご存じの方がいたら、ぜひ教えてください。

2代目:48年間現役だったコンクリート橋(昭和35年〜平成20年)

昭和35年(1960年)8月、ついにコンクリート製の本格的な橋が完成しました。総工事費1074万円。
この2代目富士見橋は、なんと48年間も現役で活躍しました。
平成20年(2008年)2月に3代目にバトンタッチするまで、多くの人の通学路として、通勤路として、日常の足として使われ続けたんです。
長泉郷土史には「もぐり橋の名も昔語りとなったのである」と記されています。先人たちの悲願だった橋が、ようやく安定して使えるようになった喜びが伝わってきますね。


古い写真をベースにしたAIによる2代目富士見橋の生成写真


橋のたもとの賑わい

2代目の富士見橋の時代、橋のたもとには様々なお店がありました。
橋は「川を渡る」という重要なポイントで、人の動線が集中しやすい場所。だから自然とお店も集まったのかもしれません。
会員の方からの情報と、図書館で閲覧できる過去のゼンリン地図から確認できた店舗を紹介します。

確認できた店舗一覧:

  • 山田魚店 – 1982年まで確認、1984年には閉店
  • 肉屋 – 1980年の地図にはすでに記載なし
  • 新東食堂(ラーメン屋さん)- 出前もあり、2010年まで存在を確認
  • さつき美容院 – 2010年まで存在を確認
  • ヘアサロンマリ – 1996年まで営業
  • リカーフーズフジミヤ – 1999年まで営業

面白いのは、これらの店舗がほぼすべて納米里側に集中していたこと。南一色側にはお店がなかったんです。
なぜでしょう?
会員の方から、こんな情報をいただきました。
「南一色側はとにかく急な坂だった。自転車で立ち漕ぎしなければのぼれなかった」
なるほど、地形的な理由で人が滞留しにくかったのかもしれませんね。

古い写真をベースにしたAIによる2代目富士見橋の生成写真


橋の周りの思い出

会員の方からは、こんな思い出も寄せられています。
「富士見橋付近で昔、魚を放流して釣り大会があった気がします」
(※もっと上流でニジマスの放流をしていた記録は確認できました)
「夏になると、富士見橋から富士山に登山している人のライトが見えました」
夜の富士山に連なる登山者のヘッドライト…。今でも見えるのでしょうか?試してみた方がいたら教えてください。
「橋のたもとの桜の木が印象的だった」
確かに桜がありました!残念ながら、この写真はまだ入手できていないです。お持ちの方は是非公式LINEまで。


3代目:現在の橋(平成20年〜)

平成20年(2008年)2月、現在の富士見橋が開通しました。
2代目より少し黄瀬川の上流側に位置が変わっています。なぜ場所が変わったのでしょうか?
長泉町役場建設計画課に問い合わせたところ、こんな回答をいただきました。
「東駿河湾環状線の整備に伴い、周辺道路の付替えや新たにできた信号交差点の形状及び走行の安全性など、総合的に判断し現在の位置に架け変わりました」
確かに、現在の橋は伊豆縦貫道を前提として、町の主要幹線道路である沼津小山線に接続しやすい経路になっています。
ちなみに、建設時は国土交通省が事業主体でしたが、現在は町の管理になっているそうです。

旧富士見橋と新富士見橋の比較図 赤が旧富士見橋と周辺道路、緑が現行の富士見橋と周辺道路


今も残る「旧道」の痕跡

2代目の富士見橋があった場所、実は今でも道路の痕跡が残っています。

現地を歩いてみると、かつて橋へ続いていた道路が途切れている様子がわかります。伊豆縦貫道の高架下には、昔の道路だった空間が残されています。

2025年撮影。昔の道路だったところの写真

知らなければ気づかないかもしれませんが、一度意識して見ると「ああ、ここに橋があったんだ」と感じられるはずです。


富士見橋の歴史年表

スクロールできます
時代架橋年出来事
0代目不明潜り橋。普向寺付近から南一色へ渡っていた
1代目1953年(昭和28年) 5月20日木橋「米納里橋」架橋。落成式当日に崩落
1.5代目時期不明1代目を修理。道路拡幅、「富士見橋」に改名
2代目1960年(昭和35年)8月 コンクリート橋に改築。48年間現役
3代目2008年(平成20年)2月 現在の橋。伊豆縦貫道建設に合わせ上流側に移設

あなたの「富士見橋」の思い出を教えてください

今回の記事は、長泉郷土史、小学校郷土読本、土木学会の橋梁史年表、過去の静岡新聞(沼津の明治資料館で確認)、図書館所蔵のゼンリン地図、そして会員の皆さんからの情報提供をもとに作成しました。

でも、まだまだ分からないことがたくさんあります。写真ももっとあったらいいな。

  • 1.5代目の橋はいつ完成したのか?
  • 橋のたもとの肉屋さんの名前は?
  • 新東食堂のラーメン、どんな味だった?
  • 2代目の橋を渡った思い出は?
  • 南一色側の急な坂、どれくらい大変だった?

長泉クロニクルは、あなたの記憶を待っています。
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出典・参考資料

  • 長泉郷土史
  • 小学校郷土読本
  • 土木学会 橋梁史年表
  • 静岡新聞(昭和28年5月20日〜22日)
  • ゼンリン住宅地図(1980年〜2010年)
  • 長泉町役場建設計画課への問い合わせ
  • 会員の皆さんからの情報提供

※記事中のAI生成画像は、過去の写真を参考に作成したイメージです。

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